2008年11月17日月曜日

十三

 新年の頭を拵《こし》らえようという気になって、宗助《そうすけ》は久し振に髪結床《かみゆいどこ》の敷居を跨《また》いだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏《はさみ》の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮《あせ》るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙《せわ》しない響となって彼の鼓膜を打った。
 しばらく煖炉《ストーブ》の傍《はた》で煙草《たばこ》を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲《ま》き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱《いだ》いていたのである。
 御米《およね》の発作《ほっさ》はようやく落ちついた。今では平日《いつも》のごとく外へ出ても、家《うち》の事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所《よそ》に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生《よみがえ》ったようにはっきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩|遠退《とおの》いた時のごとくに、胸を撫《な》でおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕《とら》えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念《けねん》が、折々彼の頭のなかに霧《きり》となってかかった。
 年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意《わざ》と短い日を前へ押し出したがって齷齪《あくせく》する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠《ぼうばく》たる恐怖の念に襲《おそ》われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走《しわす》の中《うち》に一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺《なが》めた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞《しま》も全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠《かご》が、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥が止《とま》り木《ぎ》の上をちらりちらりと動いた。
 頭へ香《におい》のする油を塗られて、景気のいい声を後《うしろ》から掛けられて、表へ出たときは、それでも清々《せいせい》した心持であった。御米の勧め通り髪を刈った方が、結局《つまり》気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。
 水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。すると茶の間の襖《ふすま》が二尺ばかり開《あ》いていて、中から三四人の笑い声が聞えた。坂井の家庭は相変らず陽気であった。
 主人は光沢《つや》の好い長火鉢《ながひばち》の向側に坐っていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側《えんがわ》の障子《しょうじ》の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人の後《うしろ》に細長い黒い枠《わく》に嵌《は》めた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左が袋戸棚《ふくろとだな》になっていた。その張交《はりまぜ》に石摺《いしずり》だの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
 主人と細君のほかに、筒袖《つつそで》の揃《そろ》いの模様の被布《ひふ》を着た女の子が二人肩を擦《す》りつけ合って坐っていた。片方は十二三で、片方は十《とお》ぐらいに見えた。大きな眼を揃えて、襖《ふすま》の陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応|室《へや》の内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所に畏《かしこ》まっているのを見出した。
 宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻《さっき》の笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。男は砂埃《すなほこり》でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯《しょうがい》褪《さ》めっこない強い色を有《も》っていた。瀬戸物の釦《ボタン》の着いた白木綿《しろもめん》の襯衣《シャツ》を着て、手織の硬《こわ》い布子《ぬのこ》の襟《えり》から財布の紐《ひも》みたような長い丸打《まるうち》をかけた様子は、滅多《めった》に東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。その上男はこの寒いのに膝小僧《ひざこぞう》を少し出して、紺《こん》の落ちた小倉《こくら》の帯の尻に差した手拭《てぬぐい》を抜いては鼻の下を擦《こす》った。
「これは甲斐《かい》の国から反物《たんもの》を背負《しょ》ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶《あいさつ》をした。
 なるほど銘仙《めいせん》だの御召《おめし》だの、白紬《しろつむぎ》だのがそこら一面に取り散らしてあった。宗助はこの男の形装《なり》や言葉遣《ことばづかい》のおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行《ある》くのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米も粟《あわ》も収《と》れないから、やむを得ず桑《くわ》を植えて蚕《かいこ》を飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。
「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と云って細君は笑った。すると織屋も、
「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆《さんぴつ》のできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道《ひど》い所にゃ違ない」と真面目に細君の云う事を首肯《うけが》った。
 織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様な田舎《いなか》びた答をした。そのたびに皆《みんな》が笑った。主人夫婦はまた閑《ひま》だと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。
「織屋、御前そうして荷を背負《しょ》って、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳《ごぜん》を食べるんだろうね」と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
 主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出立《でたて》には飯が非常に旨《うま》いので、腹を据《す》えて食い出すと、大抵の宿屋は叶《かな》わない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、また皆《みんな》を笑わした。
 織屋はしまいに撚糸《よりいと》の紬《つむぎ》と、白絽《しろろ》を一匹《いっぴき》細君に売りつけた。宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕《よゆう》のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜《べんぎ》を説いた。そうして、
「なに、御払《おはらい》はいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙《めいせん》を一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
 織屋は負けた後《あと》でまた、
「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
 織屋はどこへ行ってもこういう鄙《ひな》びた言葉を使って通しているらしかった。毎日|馴染《なじ》みの家をぐるぐる回《まわ》って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽《かろ》くなって、しまいに紺《こん》の風呂敷《ふろしき》と真田紐《さなだひも》だけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕《ようさん》の忙《せわ》しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆《すっかり》金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。
「宅《うち》へ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」と細君が注意した。
「実際珍らしい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。宗助はつくづくこの織屋の容貌《ようぼう》やら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。
 彼は坂井を辞して、家《うち》へ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙の包《つつみ》を持ち易《か》えながら、それを三円という安い価《ね》で売った男の、粗末な布子《ぬのこ》の縞《しま》と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気《あぶらけ》のない硬《こわ》い髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。
 宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧《おし》の代りに坐蒲団《ざぶとん》の下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた今夜敷いて寝て下さい」と云って、御米は宗助を顧《かえり》みた。夫から、坂井へ来ていた甲斐《かい》の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙《めいせん》の縞柄《しまがら》と地合《じあい》を飽《あ》かず眺《なが》めては、安い安いと云った。銘仙は全く品《しな》の良《い》いものであった。
「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞き出した。
「なに中へ立つ呉服屋が儲《もう》け過ぎてるのさ」と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。
 夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲《もう》け方《かた》をされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価《れんか》に買っておく便宜《べんぎ》を有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、賑《にぎ》やかな模様に落ちて行った。宗助はその時突然語調を更《か》えて、
「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏な家《うち》でも陽気になるものだ」と御米を覚《さと》した。
 その云い方が、自分達の淋《さみ》しい生涯《しょうがい》を、多少|自《みずか》ら窘《たしな》めるような苦《にが》い調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えず膝《ひざ》の上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好《しこう》に合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。けれども夜《よ》に入《い》って寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。
 二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだ覚《さ》めている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなた先刻《さっき》小供がないと淋《さむ》しくっていけないとおっしゃってね」
 宗助はこれに類似の事を普般的に云った覚《おぼえ》はたしかにあった。けれどもそれは強《あな》がちに、自分達の身の上について、特に御米の注意を惹《ひ》くために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞き糺《ただ》されると、困るよりほかはなかった。
「何も宅《うち》の事を云ったのじゃないよ」
 この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。やがて、
「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟《つまり》あんな事をおっしゃるんでしょう」と前とほぼ似たような問を繰り返した。宗助は固《もと》よりそうだと答えなければならない或物を頭の中に有《も》っていた。けれども御米を憚《はばか》って、それほど明白地《あからさま》な自白をあえてし得なかった。この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談《じょうだん》にして笑ってしまう方が善《よ》かろうと考えたので、
「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子を易《か》えてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。やむを得ず、
「まあいいや。心配するな」と云った。御米はまた何とも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、
「昨夕《ゆうべ》も火事があったね」と世間話をし出した。すると御米は急に、
「私は実にあなたに御気の毒で」と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。洋灯《ランプ》はいつものように床の間の上に据《す》えてあった。御米は灯《ひ》に背《そむ》いていたから、宗助には顔の表情が判然《はっきり》分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まで仰向《あおむ》いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔をじっと眺《なが》めた。御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。そうして、
「疾《とう》からあなたに打ち明けて謝罪《あや》まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪《にく》かったもんだから、それなりにしておいたのです」と途切れ途切れに云った。宗助には何の意味かまるで解らなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然《ぼんやり》していた。すると御米が思い詰めた調子で、
「私にはとても子供のできる見込はないのよ」と云い切って泣き出した。
 宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。
「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、傍《はた》から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただって好《よ》かないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
 御米はなおと泣き出した。宗助も途方《とほう》に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、緩《ゆっ》くり御米の説明を聞いた。
 夫婦は和合|同棲《どうせい》という点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
 始めて身重《みおも》になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯《やせじょたい》を張っている時であった。懐妊《かいにん》と事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、嬉《うれ》しい未来を一度に夢に見るような心持を抱《いだ》いて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊《かたまり》が、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然|下《お》りてしまった。その時分の夫婦の活計《くらし》は苦しい苛《つら》い月ばかり続いていた。宗助は流産した御米の蒼《あお》い顔を眺めて、これも必竟《つまり》は世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩《くず》されて、永く手の裡《うち》に捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。
 福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸《す》いものを嗜《たし》む人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万《よろず》に注意して、つつましやかに振舞っていた。そのせいか経過は至極《しごく》順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診《み》て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。宗助の手際《てぎわ》では、室内に煖炉《だんろ》を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命を護《まも》った。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情《なさけ》の塊《かたまり》はついに冷たくなった。御米は幼児の亡骸《なきがら》を抱《だ》いて、
「どうしましょう」と啜《すす》り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和《か》するまで、一口も愚痴《ぐち》らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人の間に挟《はさ》まっていた影のようなものが、しだいに遠退《とおの》いて、ほどなく消えてしまった。
 すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶん身体《からだ》が衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣《きづか》ったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。ところがちょうど五月目《いつつきめ》になって、御米はまた意外の失敗《しくじり》をやった。その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流《いどながし》の傍《そば》に置いた盥《たらい》の傍まで行って話をしたついでに、流《ながし》を向《むこう》へ渡ろうとして、青い苔《こけ》の生えている濡《ぬ》れた板の上へ尻持《しりもち》を突いた。御米はまたやり損《そく》なったとは思ったが、自分の粗忽《そこつ》を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体《からだ》にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助は固《もと》より妻を咎《とが》める意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
 とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際《まぎわ》まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子《こうし》の前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
 幸《さいわい》に御米の産気《さんけ》づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆も緩《ゆっ》くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃《そろ》えてあった。産も案外軽かった。けれども肝心《かんじん》の小児《こども》は、ただ子宮を逃《のが》れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子《ガラス》の管のようなものを取って、小《ち》さい口の内《なか》へ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、効目《ききめ》はまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴《ほうふつ》した。しかしその咽喉《のど》から出る声はついに聞く事ができなかった。
 産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧《ていねい》に胎児の心臓まで聴診して、至極《しごく》御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹の児《こ》の発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それが直《すぐ》取り出されない以上、母体は今日《こんにち》まで平気に持ち応《こた》える訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡《さいたいてんらく》と云って、俗に云う胞《えな》を頸《くび》へ捲《ま》きつけていた。こう云う異常の場合には、固《もと》より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨《うま》く頸に掛かった胞を外《はず》して引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸を絡《から》んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重《ひとえ》ではなかった。二重《ふたえ》に細い咽喉《のど》を巻いている胞を、あの細い所を通す時に外し損《そく》なったので、小児《こども》はぐっと気管を絞《し》められて窒息してしまったのである。
 罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上は御米の落度《おちど》に違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅《しりもち》を搗《つ》いた五カ月前すでに自《みずか》ら醸《かも》したものと知れた。御米は産後の蓐中《じょくちゅう》にその始末を聞いて、ただ軽く首肯《うなず》いたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を霑《うる》ませて、長い睫毛《まつげ》をしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手帛《ハンケチ》で頬に流れる涙を拭《ふ》いてやった。
 これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦《にが》い経験を甞《な》めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋《さむ》しく染めつけられて、容易に剥《は》げそうには見えなかった。時としては、彼我《ひが》の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
 御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下《くだ》した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇《くらやみ》と明海《あかるみ》の途中に待ち受けて、これを絞殺《こうさつ》したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己《おのれ》を見傚《みな》さない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責《かしゃく》を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
 彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体《からだ》から云うと極《きわ》めて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩《ひつぎ》を拵《こし》らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌《いはい》を作った。位牌には黒い漆《うるし》で戒名《かいみょう》が書いてあった。位牌の主《ぬし》は戒名を持っていた。けれども俗名《ぞくみょう》は両親《ふたおや》といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥《たんす》の上へ載《の》せて、役所から帰ると絶えず線香を焚《た》いた。その香《におい》が六畳に寝ている御米の鼻に時々|通《かよ》った。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌《いはい》を箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包《くる》んで丁寧《ていねい》に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携《たずさ》えて、諸所を漂泊《ひょうはく》するの煩《わずら》わしさに堪《た》えなかったので、新らしい父の分だけを鞄《かばん》の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
 御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団《ふとん》の上に仰向《あおむけ》になったまま、この二つの小《ち》さい位牌を、眼に見えない因果《いんが》の糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳《おごそ》かな支配を認めて、その厳かな支配の下《もと》に立つ、幾月日《いくつきひ》の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛《のろい》の声を耳の傍《はた》に聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団《ふとん》の上に貪《むさ》ぼらなければならないように、生理的に強《し》いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
 御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛《つら》かったので、看護婦の帰った明《あく》る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼《せま》る不安は、容易に紛《まぎ》らせなかった。退儀《たいぎ》な身体《からだ》を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆《がっか》りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜《もぐ》り込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅く閉《つぶ》ってしまう事もあった。
 そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体は自《おのず》からすっきりなった。御米は奇麗《きれい》に床を払って、新らしい気のする眉《まゆ》を再び鏡に照らした。それは更衣《ころもがえ》の時節であった。御米も久しぶりに綿の入《い》った重いものを脱《ぬ》ぎ棄《す》てて、肌に垢《あか》の触れない軽い気持を爽《さわ》やかに感じた。春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋《さむ》しい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものを掻《か》き立てて、賑《にぎ》やかな光りのうちに浮かしたまでであった。御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心が萌《きざ》したのである。
 天気の勝《すぐ》れて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してから直《じき》に、表へ出た。もう女は日傘《ひがさ》を差して外を行くべき時節であった。急いで日向《ひなた》を歩くと額の辺《あたり》が少し汗ばんだ。御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者《えきしゃ》の門を潜《くぐ》った。
 彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。それが実生活の厳かな部分を冒《おか》すようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。御米はその時|真面目《まじめ》な態度と真面目な心を有《も》って、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占《うら》なう人と、少しも違った様子もなく、算木《さんぎ》をいろいろに並べて見たり、筮竹《ぜいちく》を揉《も》んだり数えたりした後で、仔細《しさい》らしく腮《あご》の下の髯《ひげ》を握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづく眺《なが》めた末、
「あなたには子供はできません」と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛《か》んだり砕《くだ》いたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対してすまない事をした覚《おぼえ》がある。その罪が祟《たた》っているから、子供はけっして育たない」と云い切った。御米はこの一言《いちげん》に心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなり家《うち》へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
 御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細い洋灯《ランプ》の灯《ひ》が、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭《ぜに》を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もその占《うらない》の宅《うち》へ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないがいい。馬鹿気ている」
 宗助はわざと鷹揚《おうよう》な答をしてまた寝てしまった。

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