2008年11月17日月曜日

十五

 この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑《おさ》えつけられていた。佐伯《さえき》の家とは親しい関係が結べなくなった。叔父は死んだ。叔母と安之助《やすのすけ》はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際《つきあい》はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。向《むこう》からも来なかった。家《いえ》に引取った小六《ころく》さえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米《およね》を悪《にく》んでいた。御米にも宗助《そうすけ》にもそれがよく分っていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間際《まぎわ》まで来た。
 通町《とおりちょう》では暮の内から門並揃《かどなみそろい》の注連飾《しめかざり》をした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹《ささ》が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付《くぎづけ》にした。それから大きな赤い橙《だいだい》を御供《おそなえ》の上に載《の》せて、床の間に据《す》えた。床にはいかがわしい墨画《すみえ》の梅が、蛤《はまぐり》の格好《かっこう》をした月を吐《は》いてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこりゃ、どう云う了見《りょうけん》だね」と自分で飾りつけた物を眺《なが》めながら、御米に聞いた。御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と云って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けて御供の位置を直した。
 伸餅《のしもち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。庖丁《ほうちょう》が足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。力のあるだけに小六が一番多く切った。その代り不同も一番多かった。中には見かけの悪い形のものも交った。変なのができるたびに清《きよ》が声を出して笑った。小六は庖丁の背に濡布巾《ぬれぶきん》をあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、
「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
 そのほかに迎年《げいねん》の支度としては、小殿原《ごまめ》を熬《い》って、煮染《にしめ》を重詰にするくらいなものであった。大晦日《おおみそか》の夜《よ》に入《い》って、宗助は挨拶《あいさつ》かたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子《すりガラス》へ明るい灯《ひ》が映って、中はざわざわしていた。上《あが》り框《がまち》に帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もいた。その片隅《かたすみ》に印袢天《しるしばんてん》を着た出入《でいり》のものらしいのが、下を向いて、小《ち》さい輪飾《わかざり》をいくつも拵《こしら》えていた。傍《そば》に譲葉《ゆずりは》と裏白《うらじろ》と半紙と鋏《はさみ》が置いてあった。若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしい札《さつ》と銀貨を畳に並べていた。主人は宗助を見て、
「いやどうも」と云った。「押しつまってさぞ御忙《おいそが》しいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもう飽《あ》きましたな。いくら面白いものでも四十|辺《ぺん》以上繰り返すと厭《いや》になりますね」
 主人は年の送迎に煩《わず》らわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。言葉遣《ことばづかい》は活溌《かっぱつ》であった。顔はつやつやしていた。晩食《ばんしょく》に傾けた酒の勢《いきおい》が、まだ頬の上に差しているごとく思われた。宗助は貰い煙草《たばこ》をして二三十分ばかり話して帰った。
 家《うち》では御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入《シャボンいれ》を手拭《てぬぐい》に包《くる》んで、留守居を頼む夫の帰《かえり》を待ち受けていた。
「どうなすったの、随分長かったわね」と云って時計を眺めた。時計はもう十時近くであった。その上清は湯の戻りに髪結《かみゆい》の所へ回って頭を拵《こしら》えるはずだそうであった。閑静な宗助の活計《くらし》も、大晦日《おおみそか》にはそれ相応《そうおう》の事件が寄せて来た。
「払《はらい》はもう皆《みんな》済んだのかい」と宗助は立ちながら御米に聞いた。御米はまだ薪屋《まきや》が一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」と云って懐《ふところ》の中から汚《よご》れた男持の紙入と、銀貨入の蟇口《がまぐち》を出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」と夫はそれを受取ながら云った。
「先刻《さっき》大晦日の夜の景色《けしき》を見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」と云う御米の後《あと》に追《つ》いて、清は大きな声を出して笑った。やがて、
「御若いから」と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄《げた》を揃《そろ》えた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通のだって」
 御米はその時もう框《かまち》から下《お》りかけていた。すぐ腰障子《こししょうじ》を開ける音がした。宗助はその音を聞き送って、たった一人|火鉢《ひばち》の前に坐って、灰になる炭の色を眺《なが》めていた。彼の頭には明日《あした》の日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子《きぬぼうし》の光が見えた。洋剣《サアベル》の音だの、馬の嘶《いななき》だの、遣羽子《やりはご》の声が聞えた。彼は今から数時間の後《のち》また年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
 陽気そうに見えるもの、賑《にぎや》かそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂《ひじ》を把《と》って、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。彼はただ饗宴《きょうえん》に招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事を免《まぬ》かれた人であった。彼は自分と御米の生命《ライフ》を、毎年平凡な波瀾《はらん》のうちに送る以上に、面前《まのあたり》大した希望も持っていなかった。こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
 御米は十時過に帰って来た。いつもより光沢《つや》の好い頬を灯《ひ》に照らして、湯の温《ぬくもり》のまだ抜けない襟《えり》を少し開けるように襦袢《じゅばん》を重ねていた。長い襟首がよく見えた。
「どうも込んで込んで、洗う事も桶《おけ》を取る事もできないくらいなの」と始めて緩《ゆっ》くり息を吐《つ》いた。
 清の帰ったのは十一時過であった。これも綺麗《きれい》な頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶《あいさつ》をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。
 ただ小六だけは容易に帰らなかった。十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話を繋《つな》いでいた。小六は幸《さいわい》にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。
 白牡丹《はくぼたん》へ這入《はい》って、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉《おてだま》を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つ攫《つか》んだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、袂《たもと》から倶楽部《くらぶ》洗粉《あらいこ》を一袋出した。それを御米の前に置いて、
「姉さんに上げましょう」と云った。それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、
「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」と云った。
 事に乏しい一小家族の大晦日《おおみそか》は、それで終りを告げた。

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