2008年11月18日火曜日

 小六《ころく》はともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調《ととの》った。御米《およね》は六畳に置きつけた桑《くわ》の鏡台を眺《なが》めて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少し遣場《やりば》に困るのね」と訴えるように宗助《そうすけ》に告げた。実際ここを取り上げられては、御米の御化粧《おつくり》をする場所が無くなってしまうのである。宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側《まどぎわ》に据《す》えてある鏡の裏を斜《はす》に眺《なが》めた。すると角度の具合で、そこに御米の襟元《えりもと》から片頬が映っていた。それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、
「御前《おまい》、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。鬢《びん》が乱れて、襟の後《うしろ》の辺《あたり》が垢《あか》で少し汚《よご》れていた。御米はただ、
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側に付いている。一間《いっけん》の戸棚《とだな》を明けた。下には古い創《きず》だらけの箪笥《たんす》があって、上には支那鞄《しなかばん》と柳行李《やなぎごり》が二つ三つ載《の》っていた。
「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
 小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じ憚《はばかり》があったので、いられる限《かぎり》は下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越を前《さき》へ送っていた。その癖《くせ》彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒《じんぜん》の境に落ちついてはいられなかったのである。
 そのうち薄い霜《しも》が降《お》りて、裏の芭蕉《ばしょう》を見事に摧《くだ》いた。朝は崖上《がけうえ》の家主《やぬし》の庭の方で、鵯《ひよどり》が鋭どい声を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭《らっぱ》に交って、円明寺の木魚の音が聞えた。日はますます短かくなった。そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽《さや》かにはならなかった。夫《おっと》が役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。
 宗助は心配した。役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝《ひざ》を拍《う》った。その日は例になく元気よく格子《こうし》を明けて、すぐと勢《いきおい》よく今日はどうだいと御米に聞いた。御米がいつもの通り服や靴足袋《くつたび》を一纏《ひとまと》めにして、六畳へ這入《はい》る後《あと》から追《つ》いて来て、
「御米、御前《おまい》子供ができたんじゃないか」と笑いながら云った。御米は返事もせずに俯向《うつむ》いてしきりに夫の背広《せびろ》の埃《ほこり》を払った。刷毛《ブラッシ》の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐《すわ》っていた。はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。
 その晩夫婦は火鉢《ひばち》に掛けた鉄瓶《てつびん》を、双方から手で掩《おお》うようにして差し向った。
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗《きれい》に浮んだ。
「ちっと、面白くしようじゃないか。この頃《ごろ》はいかにも不景気だよ」と宗助がまた云った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着の事が題目になった。宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖《こそで》とかを強請《ねだ》られた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼《かせ》いでるんじゃないと云って跳《は》ねつけたら、細君がそりゃ非道《ひど》い、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布《けっと》を被《かぶ》るとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。
「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套《マント》を拵《こしら》えたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦《こも》で盆栽《ぼんさい》の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
「ああ」
 御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、
「御拵《おこし》らえなさいな。月賦で」と云った。宗助は、
「まあ止そうよ」と急に侘《わび》しく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
「来るのは厭なんでしょう」と御米が答えた。御米には、自分が始めから小六に嫌《きら》われていると云う自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくは反《そり》を合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日《こんにち》まで仕向けて来た。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅《こじゅうと》ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一《ゆいいつ》の原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套《マント》を作るだけの勇気があるんだけれども」
 宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮《あご》を襟《えり》の中へ埋《う》めたまま、上眼《うわめ》を使って、
「小六さんは、まだ私の事を悪《にく》んでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度《つど》慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談《じょうだん》を云う女であった。宗助は
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 翌日宗助が眼を覚《さ》ますと、亜鉛張《トタンばり》の庇《ひさし》の上で寒い音がした。御米が襷掛《たすきがけ》のまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴《てんてき》の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団《ふとん》の中に温《ぬく》もっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否《いな》や、
「おい」と云って直《すぐ》起き上った。
 外は濃い雨に鎖《とざ》されていた。崖《がけ》の上の孟宗竹《もうそうちく》が時々|鬣《たてがみ》を振《ふる》うように、雨を吹いて動いた。この侘《わ》びしい空の下へ濡《ぬ》れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁《みそしる》と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中が濡《ぬ》れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿《は》いて、洋袴《ズボン》の裾《すそ》を一寸《いっすん》ばかりまくり上げた。
 午過《ひるすぎ》に帰って来て見ると、御米は金盥《かなだらい》の中に雑巾《ぞうきん》を浸《つ》けて、六畳の鏡台の傍《そば》に置いていた。その上の所だけ天井《てんじょう》の色が変って、時々|雫《しずく》が落ちて来た。
「靴ばかりじゃない。家《うち》の中まで濡《ぬ》れるんだね」と云って宗助は苦笑した。御米はその晩夫のために置炬燵《おきごたつ》へ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗《しまらしゃ》の洋袴《ズボン》を乾かした。
 明《あく》る日もまた同じように雨が降った。夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助は眉《まゆ》を縮めて舌打をした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿《は》けやしない」
「六畳だって困るわ、ああ漏《も》っちゃ」
 夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根を繕《つくろ》って貰うように家主《やぬし》へ掛け合う事にした。けれども靴の方は何ともしようがなかった。宗助はきしんで這入《はい》らないのを無理に穿《は》いて出て行った。
 幸《さいわい》にその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀《すずめ》の鳴く小春日和《こはるびより》になった。宗助が帰った時、御米は例《いつも》より冴《さ》え冴《ざ》えしい顔色をして、
「あなた、あの屏風《びょうぶ》を売っちゃいけなくって」と突然聞いた。抱一《ほういつ》の屏風はせんだって佐伯《さえき》から受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。南へ廻すと、玄関からの入口を半分|塞《ふさ》いでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、
「せっかく親爺《おやじ》の記念《かたみ》だと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞《ばふさ》げで」と零《こぼ》した事も一二度あった。その都度《つど》御米は真丸な縁《ふち》の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒《ほすすき》の色を眺《なが》めて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。けれども、夫を憚《はばか》って、明白《あから》さまには何とも云い出さなかった。ただ一返《いっぺん》
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いた事があった。その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔《むか》し父から聞いた覚《おぼえ》のある、朧気《おぼろげ》な記憶を好加減《いいかげん》に繰り返すに過ぎなかった。実際の画《え》の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもその実《じつ》はなはだ覚束《おぼつか》なかったのである。
 ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成《かたちづく》る原因となった。過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑《ほほえ》んだ。この日雨が上って、日脚《ひあし》がさっと茶の間の障子《しょうじ》に射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻《えりまき》ともつかない織物を纏《まと》って外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直《まっすぐ》に来ると、乾物《かんぶつ》屋と麺麭《パン》屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今|火鉢《ひばち》に掛けてある鉄瓶《てつびん》も、宗助がここから提《さ》げて帰ったものである。
 御米は手を袖《そで》にして道具屋の前に立ち留まった。見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢《ひばち》が一番多く眼に着いた。しかし骨董《こっとう》と名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとり何とも知れぬ大きな亀の甲《こう》が、真向《まむこう》に釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子《ほっす》が尻尾《しっぽ》のように出ていた。それから紫檀《したん》の茶棚《ちゃだな》が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂《くるい》の出そうな生《なま》なものばかりであった。しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛物も屏風《びょうぶ》も一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入《はい》った。
 御米は無論夫が佐伯から受取った屏風《びょうぶ》を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭《おかげ》で、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口を利《き》く事ができた。亭主は五十|恰好《かっこう》の色の黒い頬の瘠《こ》けた男で、鼈甲《べっこう》の縁《ふち》を取った馬鹿に大きな眼鏡《めがね》を掛けて、新聞を読みながら、疣《いぼ》だらけの唐金《からかね》の火鉢に手を翳《かざ》していた。
「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望を抱《いだ》いて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。
「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
 御米はこの存在《ぞんざい》な言葉を聞いてそのまま宅《うち》へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。一人でいつものように簡単な食事を済まして、清《きよ》に膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのを撫《な》でていたが、
「御払《おはらい》になるなら」と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」と否々《いやいや》そうに価《ね》を付けた。御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。道具屋は出掛に、
「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」と云った。御米はその時思い切って、
「でも、道具屋さん、ありゃ抱一《ほういつ》ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、
「抱一は近来|流行《はや》りませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺《なが》めた上、
「じゃなおよく御相談なすって」と云い捨てて帰って行った。
 御米はその時の模様を詳しく話した後《あと》で、
「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。
 宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計《くらし》を足ると諦《あき》らめる癖がついているので、毎月きまって這入《はい》るもののほかには、臨時に不意の工面《くめん》をしてまで、少しでも常以上に寛《くつ》ろいでみようと云う働は出なかった。話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。御米の思《おも》わくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入《はい》れば、宗助の穿《は》く新らしい靴を誂《あつ》らえた上、銘仙《めいせん》の一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風《びょうぶ》を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙《めいせん》を並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛《とっぴ》でかつ滑稽《こっけい》であった。
「売るなら売っていいがね。どうせ家《うち》に在《あ》ったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」
「だってまた降ると困るわ」
 宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。二人は顔を見合して笑っていた。やがて、
「安過ぎるでしょうか」と御米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
 彼は安いと云われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものと諦《あきら》めていた。
「買手にも因《よ》るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余《あんま》り安いようだね」
 宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩《も》らした。そうしてただ自分だけが弁護に価《あたい》しないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
 翌日《あくるひ》宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。すると皆申し合せたように、それは価《ね》じゃないと云った。けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てておくよりほかに仕方がなかった。彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。夫婦は顔を見合して微笑《ほほえ》んだ。もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。すると道具屋がまた来た。また売らなかった。御米は断るのが面白くなって来た。四度目《よたびめ》には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思い切って屏風を売り払った。

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