2008年11月11日火曜日

十八

 宗助《そうすけ》は一封の紹介状を懐《ふところ》にして山門《さんもん》を入った。彼はこれを同僚の知人の某《なにがし》から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋《かくし》から菜根譚《さいこんたん》を出して読む男であった。こう云う方面に趣味のない宗助は、固《もと》より菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。その時同僚は、一口に説明のできる格好《かっこう》な言葉を有《も》っていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうというような妙な挨拶《あいさつ》をした。宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。
 紹介状を貰う四五日前《しごんちまえ》、彼はこの同僚の傍《そば》へ行って、君は禅学をやるのかと、突然質問を掛けた。同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚ろいた様子であったが、いややらない、ただ慰《なぐさ》み半分にあんな書物を読むだけだと、すぐ逃げてしまった。宗助は多少失望に弛《ゆる》んだ下唇《したくちびる》を垂れて自分の席に帰った。
 その日帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わした。先刻《さっき》宗助の様子を、気の毒に観察した同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたものと見えて、前よりはもっと親切にその方面の話をして聞かした。しかし自分はいまだかつて参禅という事をした経験がないと自白した。もし詳《くわ》しい話が聞きたければ、幸い自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと云った。宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書き留めた。そうして次の日同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。宗助の懐《ふところ》にした書状はその折席上で認《したた》めて貰ったものであった。
 役所は病気になって十日ばかり休む事にした。御米《およね》の手前もやはり病気だと取り繕《つくろ》った。
「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊《あす》んで来るよ」と云った。御米はこの頃の夫の様子のどこかに異状があるらしく思われるので、内心では始終《しじゅう》心配していた矢先だから、平生煮え切らない宗助の果断を喜んだ。けれどもその突然なのにも全く驚ろいた。
「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」と眼を丸くしないばかりに聞いた。
「やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている」と宗助は落ちついて答えた。地味な宗助とハイカラな鎌倉とはほとんど縁の遠いものであった。突然二つのものを結びつけるのは滑稽《こっけい》であった。御米も微笑を禁じ得なかった。
「まあ御金持ね。私《わたし》もいっしょに連れてってちょうだい」と云った。宗助は愛すべき細君のこの冗談《じょうだん》を味わう余裕を有たなかった。真面目《まじめ》な顔をして、
「そんな贅沢《ぜいたく》な所へ行くんじゃないよ。禅寺へ留《と》めて貰《もら》って、一週間か十日、ただ静かに頭を休めて見るだけの事さ。それもはたして好くなるか、ならないか分らないが、空気のいい所へ行くと、頭には大変違うと皆《みんな》云うから」と弁解した。
「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」
 御米は善良な夫に調戯《からか》ったのを、多少済まないように感じた。宗助はその翌日《あくるひ》すぐ貰って置いた紹介状を懐《ふところ》にして、新橋から汽車に乗ったのである。
 その紹介状の表には釈宜道《しゃくぎどう》様と書いてあった。
「この間まで侍者《じしゃ》をしていましたが、この頃では塔頭《たっちゅう》にある古い庵室に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら尋ねて御覧なさい。庵の名はたしか一窓庵《いっそうあん》でした」と書いてくれる時、わざわざ注意があったので、宗助は礼を云って手紙を受取りながら、侍者《じしゃ》だの塔頭《たっちゅう》だのという自分には全く耳新らしい言葉の説明を聞いて帰ったのである。
 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮《さえぎ》っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚《さと》った。静かな境内《けいだい》の入口に立った彼は、始めて風邪《ふうじゃ》を意識する場合に似た一種の悪寒《さむけ》を催した。
 彼はまず真直《まっすぐ》に歩るき出した。左右にも行手《いくて》にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。けれども人の出入《でいり》はいっさいなかった。ことごとく寂寞《せきばく》として錆《さ》び果《は》てていた。宗助はどこへ行って、宜道《ぎどう》のいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回《みまわ》した。
 山の裾《すそ》を切り開いて、一二丁奥へ上《のぼ》るように建てた寺だと見えて、後《うしろ》の方は樹《き》の色で高く塞《ふさ》がっていた。路の左右も山続《やまつづき》か丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。その小高い所々に、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。平地《ひらち》に垣を繞《めぐ》らして、点在しているのは、幾多《いくら》もあった。近寄って見ると、いずれも門瓦《もんがわら》の下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。
 宗助は箔《はく》の剥《は》げた古い額を一二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へ探《さが》し出して、もしそこに手紙の名宛《なあて》の坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。それから逆戻りをして塔頭を一々調べにかかると、一窓庵は山門を這入《はい》るや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあった。丘外《おかはず》れなので、日当《ひあたり》の好い、からりとした玄関先を控えて、後《うしろ》の山の懐《ふところ》に暖まっているような位置に冬を凌《しの》ぐ気色《けしき》に見えた。宗助は玄関を通り越して庫裡《くり》の方から土間に足を入れた。上り口の障子《しょうじ》の立ててある所まで来て、たのむたのむと二三度呼んで見た。しかし誰も出て来てくれるものはなかった。宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子を窺《うかが》っていた。いつまで立っていても音沙汰《おとさた》がないので、宗助は不思議な思いをして、また庫裡を出て門の方へ引返した。すると石段の下から剃立《そりたて》の頭を青く光らした坊さんが上って来た。年はまだ二十四五としか見えない若い色白の顔であった。宗助は門の扉の所に待ち合わして、
「宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか」と聞いた。
「私が宜道です」と若い僧は答えた。宗助は少し驚ろいたが、また嬉《うれ》しくもあった。すぐ懐中から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切って、その場で読み下《くだ》した。やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、
「ようこそ」と云って、叮嚀《ていねい》に会釈《えしゃく》したなり、先に立って宗助を導いた。二人は庫裡に下駄《げた》を脱いで、障子を開けて内へ這入った。そこには大きな囲炉裏《いろり》が切ってあった。宜道は鼠木綿《ねずみもめん》の上に羽織《はお》っていた薄い粗末な法衣《ころも》を脱いで釘《くぎ》にかけて、
「御寒うございましょう」と云って、囲炉裏の中に深く埋《い》けてあった炭を灰の下から掘り出した。
 この僧は若いに似合わずはなはだ落ちついた話振《はなしぶり》をする男であった。低い声で何か受答えをした後《あと》で、にやりと笑う具合などは、まるで女のような感じを宗助に与えた。宗助は心のうちに、この青年がどういう機縁の元《もと》に、思い切って頭を剃《そ》ったものだろうかと考えて、その様子のしとやかなところを、何となく憐《あわ》れに思った。
「大変御静なようですが、今日はどなたも御留守なんですか」
「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のあるときは構わず明け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して参りました。それがためせっかくおいでのところを失礼致しました」
 宜道はこの時改めて遠来の人に対して自分の不在を詫《わ》びた。この大きな庵を、たった一人で預かっているさえ、相応に骨が折れるのに、その上に厄介《やっかい》が増したらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色をほかに動かした。すると宜道は、
「いえ、ちっとも御遠慮には及びません。道のためでございますから」とゆかしい事を云った。そうして、目下自分の所に、宗助のほかに、まだ一人世話になっている居士《こじ》のある旨《むね》を告げた。この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。宗助はそれから二三日して、始めてこの居士を見たが、彼は剽軽《ひょうきん》な羅漢《らかん》のような顔をしている気楽そうな男であった。細い大根《だいこ》を三四本ぶら下げて、今日は御馳走《ごちそう》を買って来たと云って、それを宜道に煮てもらって食った。宜道も宗助もその相伴《しょうばん》をした。この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交って、村の御斎《おとき》などに出かける事があるとか云って宜道が笑っていた。
 そのほか俗人で山へ修業に来ている人の話もいろいろ聞いた。中に筆墨《ふですみ》を商《あきな》う男がいた。背中へ荷をいっぱい負《しょ》って、二十日《はつか》なり三十日《さんじゅうにち》なり、そこら中回って歩いて、ほぼ売り尽してしまうと山へ帰って来て坐禅をする。それからしばらくして食うものがなくなると、また筆墨を背に載《の》せて行商に出る。彼はこの両面の生活を、ほとんど循環小数《じゅんかんしょうすう》のごとく繰り返して、飽《あ》く事を知らないのだと云う。
 宗助は一見《いっけん》こだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔《けんかく》の甚《はなは》だしいのに驚ろいた。そんな気楽な身分だから坐禅《ざぜん》ができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲水《うんすい》をして苦しむものはありません」と宜道は云った。
 彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師《ろうし》から公案《こうあん》の出る事や、その公案に一生懸命|噛《かじ》りついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言《じょごん》を与えた末、
「御室《おへや》へ御案内しましょう」と云って立ち上がった。
 囲炉裏《いろり》の切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、その外《はず》れにある六畳の座敷の障子《しょうじ》を縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。けれども頭の中は、周囲の幽静な趣《おもむき》と反照《はんしょう》するためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
 約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
「老師《ろうし》が相見《しょうけん》になるそうでございますから、御都合が宜《よろ》しければ参りましょう」と云って、丁寧《ていねい》に敷居の上に膝《ひざ》を突いた。
 二人はまた寺を空《から》にして連立って出た。山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池《はすいけ》があった。寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀《よど》んでいるだけで、少しも清浄《しょうじょう》な趣《おもむき》はなかったが、向側《むこうがわ》に見える高い石の崖外《がけはず》れまで、縁に欄干《らんかん》のある座敷が突き出しているところが、文人画《ぶんじんが》にでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物を指《ゆびさ》した。
 二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段を上《のぼ》って、その正面にある大きな伽藍《がらん》の屋根を仰《あお》いだまま直《すぐ》左りへ切れた。玄関へ差しかかった時、宜道は
「ちょっと失礼します」と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴《つ》れて行った。
 老師というのは五十|格好《がっこう》に見えた。赭黒《あかぐろ》い光沢《つや》のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊《しま》って、どこにも怠《おこたり》のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇《くちびる》があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛《ゆる》みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩《せいさい》が閃《ひら》めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生《ふぼみしょう》以前《いぜん》本来《ほんらい》の面目《めんもく》は何《なん》だか、それを一つ考えて見たら善《よ》かろう」
 宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟《ひっきょう》何物だか、その本体を捕《つら》まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利《き》くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
 晩食《ばんめし》の時宜道は宗助に、入室《にゅうしつ》の時間の朝夕《ちょうせき》二回あることと、提唱《ていしょう》の時間が午前である事などを話した上、
「今夜はまだ見解《けんげ》もできないかも知れませんから、明朝《みょうちょう》か明晩御誘い申しましょう」と親切に云ってくれた。それから最初のうちは、つめて坐《す》わるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。
 宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室《へや》ときまった六畳に這入《はい》って、ぼんやりして坐った。彼から云うといわゆる公案《こうあん》なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴《うったえ》を抱《いだ》いて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。
 同時に彼は勤《つとめ》を休んで、わざわざここまで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒な振舞《ふるまい》はできなかった。彼はまず現在の自分が許す限りの勇気を提《ひっ》さげて、公案に向おうと決心した。それがいずれのところに彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ち来《きた》すかは、彼自身といえども全く知らなかった。彼は悟《さとり》という美名に欺《あざむ》かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。
 彼は冷たい火鉢《ひばち》の灰の中に細い線香を燻《くゆ》らして、教えられた通り座蒲団《ざぶとん》の上に半跏《はんか》を組んだ。昼のうちはさまでとは思わなかった室《へや》が、日が落ちてから急に寒くなった。彼は坐りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気に堪《た》えなかった。
 彼は考えた。けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんど捕《つら》まえようのない空漠《くうばく》なものであった。彼は考えながら、自分は非常に迂濶《うかつ》な真似《まね》をしているのではなかろうかと疑《うたが》った。火事見舞に行く間際《まぎわ》に、細かい地図を出して、仔細《しさい》に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作《しょさ》を演じているごとく感じた。
 彼の頭の中をいろいろなものが流れた。そのあるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌《こんとん》として雲のごとくに動いた。どこから来てどこへ行くとも分らなかった。ただ先のものが消える、すぐ後《あと》から次のものが現われた。そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。断ち切ろうと思えば思うほど、滾々《こんこん》として湧《わ》いて出た。
 宗助は怖《こわ》くなって、急に日常の我を呼び起して、室の中を眺《なが》めた。室は微《かす》かな灯《ひ》で薄暗く照らされていた。灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。宗助は恐るべく時間の長いのに始めて気がついた。
 宗助はまた考え始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろぞろと群がる蟻《あり》のごとくに動いて行く、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。じっとしているのはただ宗助の身体《からだ》だけであった。心は切ないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。
 そのうちじっとしている身体も、膝頭《ひざがしら》から痛み始めた。真直に延ばしていた脊髄がしだいしだいに前の方に曲って来た。宗助は両手で左の足の甲を抱《かか》えるようにして下へおろした。彼は何をする目的《めあて》もなく室《へや》の中に立ち上がった。障子《しょうじ》を明けて表へ出て、門前をぐるぐる駈《か》け回《まわ》って歩きたくなった。夜はしんとしていた。寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには思えなかった。宗助は外へ出る勇気を失った。じっと生きながら妄想《もうぞう》に苦しめられるのはなお恐ろしかった。
 彼は思い切ってまた新らしい線香を立てた。そうしてまたほぼ前《ぜん》と同じ過程を繰り返した。最後に、もし考えるのが目的だとすれば、坐って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。彼は室の隅《すみ》に畳んであった薄汚ない蒲団《ふとん》を敷いて、その中に潜《もぐ》り込んだ。すると先刻《さっき》からの疲れで、何を考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚《さ》めると枕元の障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日の逼《せま》るべき色が動いた。昼も留守《るす》を置かずに済む山寺は、夜に入っても戸を閉《た》てる音を聞かなかったのである。宗助は自分が坂井の崖下《がけした》の暗い部屋に寝ていたのでないと意識するや否《いな》や、すぐ起き上がった。縁へ出ると、軒端《のきば》に高く大覇王樹《おおさぼてん》の影が眼に映った。宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏《いろり》の切ってある昨日《きのう》の茶の間へ出た。そこには昨日の通り宜道の法衣《ころも》が折釘《おりくぎ》にかけてあった。そうして本人は勝手の竈《かまど》の前に蹲踞《うずく》まって、火を焚《た》いていた。宗助を見て、
「御早う」と慇懃《いんぎん》に礼をした。「先刻《さっき》御誘い申そうと思いましたが、よく御寝《おやすみ》のようでしたから、失礼して一人参りました」
 宗助はこの若い僧が、今朝夜明がたにすでに参禅を済まして、それから帰って来て、飯を炊《かし》いでいるのだという事を知った。
 見ると彼は左の手でしきりに薪《まき》を差し易《か》えながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子であった。宗助は宜道に書物の名を尋ねた。それは碧巌集《へきがんしゅう》というむずかしい名前のものであった。宗助は腹の中で、昨夕《ゆうべ》のように当途《あてど》もない考《かんがえ》に耽《ふけ》って脳を疲らすより、いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径《ちかみち》ではなかろうかと思いついた。宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。
「書物を読むのはごく悪うございます。有体《ありてい》に云うと、読書ほど修業の妨《さまたげ》になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当《けんとう》がつきません。それを好加減《いいかげん》に揣摩《しま》する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界《きょうがい》を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫《とんざ》ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強《し》いて何か御読みになりたければ、禅関策進《ぜんかんさくしん》というような、人の勇気を鼓舞《こぶ》したり激励したりするものが宜《よろ》しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟《しげき》の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」
 宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若《なまわか》い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨《しょうま》し尽していた。彼は平凡を分として、今日《こんにち》まで生きて来た。聞達《ぶんたつ》ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥《はる》かに無力無能な赤子《あかご》であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。
 宜道が竈《へっつい》の火を消して飯をむらしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端《いどばた》へ出て顔を洗った。鼻の先にはすぐ雑木山《ぞうきやま》が見えた。その裾《すそ》の少し平《たいら》な所を拓《ひら》いて、菜園が拵《こしら》えてあった。宗助は濡《ぬ》れた頭を冷たい空気に曝《さら》して、わざと菜園まで下りて行った。そうして、そこに崖《がけ》を横に掘った大きな穴を見出した。宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方を眺《なが》めていた。やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏《いろり》には暖かい火が起って、鉄瓶《てつびん》に湯の沸《たぎ》る音が聞えた。
「手がないものだから、つい遅くなりまして御気の毒です。すぐ御膳《ごぜん》に致しましょう。しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。その代り明日《あした》あたりは御馳走《ごちそう》に風呂《ふろ》でも立てましょう」と宜道が云ってくれた。宗助はありがたく囲炉裏《いろり》の向《むこう》に坐った。
 やがて食事を了《お》えて、わが室《へや》へ帰った宗助は、また父母未生《ふぼみしょう》以前《いぜん》と云う稀有《けう》な問題を眼の前に据《す》えて、じっと眺《なが》めた。けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出す事はできなかった。そうして、すぐ考えるのが厭《いや》になった。宗助はふと御米にここへ着いた消息を書かなければならない事に気がついた。彼は俗用の生じたのを喜こぶごとくに、すぐ鞄《かばん》の中から巻紙と封じ袋を取り出して、御米にやる手紙を書き始めた。まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味《まず》い事、夜具蒲団《やぐふとん》の綺麗《きれい》に行かない事、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆を擱《お》いたが、公案に苦しめられている事や、坐禅をして膝《ひざ》の関節を痛くしている事や、考えるためにますます神経衰弱が劇《はげ》しくなりそうな事は、噫《おくび》にも出さなかった。彼はこの手紙に切手を貼《は》って、ポストに入れなければならない口実を求めて、早速山を下った。そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅《おびや》かされながら、村の中をうろついて帰った。
 午《ひる》には、宜道から話のあった居士《こじ》に会った。この居士は茶碗を出して、宜道に飯を盛《よそ》って貰《もら》うとき、憚《はば》かり様とも何とも云わずに、ただ合掌《がっしょう》して礼を述べたり、相図をしたりした。このくらい静かに物事を為《す》るのが法だとか云った。口を利《き》かず、音を立てないのは、考えの邪魔になると云う精神からだそうであった。それほど真剣にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥ずかしく思われた。
 食後三人は囲炉裏の傍《はた》でしばらく話した。その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際《まぎわ》に、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼を開《あ》いて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。こう云う気楽な考で、参禅している人もあると思うと、宗助も多少は寛《くつ》ろいだ。けれども三人が分れ分れに自分の室《へや》に入る時、宜道が、
「今夜は御誘い申しますから、これから夕方までしっかり御坐りなさいまし」と真面目《まじめ》に勧《すす》めたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。消化《こな》れない堅い団子が胃に滞《とどこ》おっているような不安な胸を抱《いだ》いて、わが室へ帰って来た。そうしてまた線香を焚《た》いて坐わり出した。その癖《くせ》夕方までは坐り続けられなかった。どんな解答にしろ一つ拵《こし》らえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕食《ゆうめし》の報知《しらせ》に本堂を通り抜けて来てくれれば好いと、そればかり気にかかった。
 日は懊悩《おうのう》と困憊《こんぱい》の裡《うち》に傾むいた。障子《しょうじ》に映る時の影がしだいに遠くへ立ち退《の》くにつれて、寺の空気が床《ゆか》の下から冷え出した。風は朝から枝を吹かなかった。縁側《えんがわ》に出て、高い庇《ひさし》を仰ぐと、黒い瓦《かわら》の小口だけが揃《そろ》って、長く一列に見える外に、穏《おだや》かな空が、蒼《あお》い光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなって行くところであった。

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