2008年11月11日火曜日

二十

 障子《しょうじ》の外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞えた。宗助《そうすけ》は半睡《はんすい》の裡《うち》にはいと応《こた》えたつもりであったが、返事を仕切らない先に、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。
 二度目に眼が覚《さ》めた時、彼は驚ろいて飛び起きた。縁側《えんがわ》へ出ると、宜道《ぎどう》が鼠木綿《ねずみもめん》の着物に襷《たすき》を掛けて、甲斐甲斐《かいがい》しくそこいらを拭いていた。赤く凍《かじか》んだ手で、濡雑巾《ぬれぞうきん》を絞《しぼ》りながら、例のごとく柔和《やさ》しいにこやかな顔をして、
「御早う」と挨拶《あいさつ》した。彼は今朝もまたとくに参禅を済ました後《のち》、こうして庵に帰って働いていたのである。宗助はわざわざ呼び起されても起き得なかった自分の怠慢を省《かえり》みて、全くきまりの悪い思をした。
「今朝もつい寝忘れて失礼しました」
 彼はこそこそ勝手口から井戸端《いどばた》の方へ出た。そうして冷たい水を汲《く》んでできるだけ早く顔を洗った。延びかかった髯《ひげ》が、頬の辺《あたり》で手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを苦にするほどの余裕はなかった。彼はしきりに宜道と自分とを対照して考えた。
 紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変|性質《たち》のいい男で、今では修業もだいぶでき上がっていると云う話だったが、会って見ると、まるで一丁字《いっていじ》もない小廝《こもの》のように丁寧《ていねい》であった。こうして襷掛《たすきがけ》で働いているところを見ると、どうしても一個の独立した庵《あん》の主人らしくはなかった。納所《なっしょ》とも小坊主とも云えた。
 この矮小《わいしょう》な若僧《じゃくそう》は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間|結跏《けっか》したぎり少しも動かなかったのである。しまいには足が痛んで腰が立たなくなって、厠《かわや》へ上《のぼ》る折などは、やっとの事壁伝いに身体《からだ》を運んだのである。その時分の彼は彫刻家であった。見性《けんしょう》した日に、嬉《うれ》しさの余り、裏の山へ馳《か》け上って、草木国土《そうもくこくど》悉皆成仏《しっかいじょうぶつ》と大きな声を出して叫んだ。そうしてついに頭を剃《そ》ってしまった。
 この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝た事はないと云った。冬でも着物のまま壁に倚《もた》れて坐睡《ざすい》するだけだと云った。侍者《じしゃ》をしていた頃などは、老師の犢鼻褌《ふんどし》まで洗わせられたと云った。その上少しの暇を偸《ぬす》んで坐りでもすると、後《うしろ》から来て意地の悪い邪魔をされる、毒吐《どくづ》かれる、頭の剃り立てには何の因果《いんが》で坊主になったかと悔む事が多かったと云った。
「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業は実際苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」
 宗助はただ惘然《ぼうぜん》とした。自己の根気と精力の足らない事をはがゆく思う上に、それほど歳月を掛けなければ成就《じょうじゅ》できないものなら、自分は何しにこの山の中までやって来たか、それからが第一の矛盾であった。
「けっして損になる気遣《きづかい》はございません。十分《じっぷん》坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗《きれい》にぶち抜いておけば、あとはこう云う風に始終《しじゅう》ここにおいでにならないでも済みますから」
 宗助は義理にもまた自分の室《へや》へ帰って坐らなければならなかった。
 こんな時に宜道が来て、
「野中さん提唱《ていしょう》です」と誘ってくれると、宗助は心から嬉しい気がした。彼は禿頭《はげあたま》を捕《つら》まえるような手の着けどころのない難題に悩まされて、坐《い》ながらじっと煩悶《はんもん》するのを、いかにも切なく思った。どんなに精力を消耗《しょうこう》する仕事でもいいから、もう少し積極的に身体《からだ》を働らかしたく思った。
 提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町も隔《へだた》っていた。蓮池《れんち》の前を通り越して、それを左へ曲らずに真直《まっすぐ》に突き当ると、屋根瓦《やねがわら》を厳《いか》めしく重ねた高い軒が、松の間に仰《あお》がれた。宜道は懐《ふところ》に黒い表紙の本を入れていた。宗助は無論手ぶらであった。提唱《ていしょう》と云うのが、学校でいう講義の意味である事さえ、ここへ来て始めて知った。
 室《へや》は高い天井《てんじょう》に比例して広くかつ寒かった。色の変った畳の色が古い柱と映《て》り合って、昔を物語るように寂《さ》び果てていた。そこに坐っている人々も皆地味に見えた。席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高声《こうせい》に語るもの、笑うものは一人もなかった。僧は皆|紺麻《こんあさ》の法衣《ころも》を着て、正面の曲※[#「碌-石」、第3水準1-84-27]《きょくろく》の左右に列を作って向い合せに並んだ。その曲※[#「碌-石」、第3水準1-84-27]は朱で塗ってあった。
 やがて老師が現われた。畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱり分らなかった。ただ彼の落ちつき払って曲※[#「碌-石」、第3水準1-84-27]に倚《よ》る重々しい姿を見た。一人の若い僧が立ちながら、紫《むらさき》の袱紗《ふくさ》を解いて、中から取り出した書物を、恭《うやうや》しく卓上に置くところを見た。またその礼拝《らいはい》して退《しり》ぞく態《さま》[#「態」は底本では「熊」]を見た。
 この時堂上の僧は一斉《いっせい》に合掌《がっしょう》して、夢窓国師《むそうこくし》の遺誡《いかい》を誦《じゅ》し始めた。思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士《こじ》も皆|同音《どうおん》に調子を合せた。聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文字であった。
「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁《しょえん》を放下《ほうげ》し、専一に己事《こじ》を究明するこれを上等と名づく。修業純ならず駁雑《はくざつ》学を好む、これを中等と云う」と云々という、余り長くはないものであった。宗助は始め夢窓国師《むそうこくし》の何人《なんびと》なるかを知らなかった。宜道からこの夢窓国師と大燈国師《だいとうこくし》とは、禅門中興の祖であると云う事を教わったのである。平生|跛《ちんば》で充分に足を組む事ができないのを憤《いきどお》って、死ぬ間際《まぎわ》に、今日《きょう》こそおれの意のごとくにして見せると云いながら、悪い方の足を無理に折っぺしょって、結跏《けっか》したため、血が流れて法衣《ころも》を煮染《にじ》ましたという大燈国師の話もその折《おり》宜道から聞いた。
 やがて提唱が始まった。宜道は懐《ふところ》から例の書物を出して、頁《ページ》を半《なか》ば擦《ず》らして宗助の前へ置いた。それは宗門無尽燈論《しゅうもんむじんとうろん》と云う書物であった。始めて聞きに出た時、宜道は、
「ありがたい結構な本です」と宗助に教えてくれた。白隠和尚《はくいんおしょう》の弟子の東嶺《とうれい》和尚とかいう人の編輯《へんしゅう》したもので、重に禅を修行するものが、浅い所から深い所へ進んで行く径路やら、それに伴なう心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。
 中途から顔を出した宗助には、よくも解《げ》せなかったけれども、講者《こうじゃ》は能弁の方で、黙って聞いているうちに、大変面白いところがあった。その上参禅の士を鼓舞《こぶ》するためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲歴譚《えつれきだん》などを取《と》り交《ま》ぜて、一段の精彩を着けるのが例であった。この日もその通りであったが、或所へ来ると、突然語調を改めて、
「この頃室中に来って、どうも妄想《もうぞう》が起っていけないなどと訴えるものがあるが」と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覚えずぎくりとした。室中に入って、その訴《うったえ》をなしたものは実に彼自身であった。
 一時間の後宜道と宗助は袖《そで》をつらねてまた一窓庵に帰った。その帰り路に宜道は、
「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得を諷《ふう》せられます」と云った。宗助は何も答えなかった。

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