2008年11月17日月曜日

 佐伯《さえき》の叔母も安之助《やすのすけ》もその後とんと宗助《そうすけ》の宅《うち》へは見えなかった。宗助は固《もと》より麹町《こうじまち》へ行く余暇を有《も》たなかった。またそれだけの興味もなかった。親類とは云いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。
 ただ小六《ころく》だけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そう繁々《しげしげ》足を運ぶ訳でもないらしかった。それに彼は帰って来て、叔母の家の消息をほとんど御米《およね》に語らないのを常としておった。御米はこれを故意《こい》から出る小六の仕打かとも疑《うたぐ》った。しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動静を耳にしない方を、かえって喜こんだ。
 それでも時々は、先方《さき》の様子を、小六と兄の対話から聞き込む事もあった。一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。それは印気《インキ》の助けを借らないで、鮮明な印刷物を拵《こし》らえるとか云う、ちょっと聞くとすこぶる重宝な器械についてであった。話題の性質から云っても、自分とは全く利害の交渉のないむずかしい事なので、御米は例の通り黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、どうして印気を使わずに印刷ができるかなどと問い糺《ただ》していた。
 専門上の知識のない小六が、精密な返答をし得るはずは無論なかった。彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限り念を入れて説明した。この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用に過ぎなかった。電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へ圧《お》しつけさえすれば、すぐできるのだと小六が云った。色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから色刷などの場合には、絵の具を乾かす時間が省《はぶ》けるだけでも大変重宝で、これを新聞に応用すれば、印気《インキ》や印気ロールの費《ついえ》を節約する上に、全体から云って、少くとも従来の四分の一の手数がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話した通りを繰り返した。そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手の中《うち》に握ったかのごとき口気《こうき》であった。かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれているように、眼を輝やかした。その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが、聞いてしまった後《あと》でも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。実際こんな発明は、宗助から見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も反対もできかねたのである。
「じゃ鰹船《かつおぶね》の方はもう止したの」と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。
「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼も拵《こしら》える訳に行かないんだそうです」と小六が答えた。小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振であった。それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱり何をしたって、そう旨《うま》く行くもんじゃあるまいよ」と云った宗助の言葉と、
「坂井さんみたように、御金があって遊んでいるのが一番いいわね」と云った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。
 こう云う機会に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へ洩《も》れる事はあるが、そのほかには、全く何をして暮らしているか、互に知らないで過す月日が多かった。
 ある時御米は宗助にこんな問を掛けた。
「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣《こづかい》でも貰《もら》って来るんでしょうか」
 今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問に逢って、すぐ、「なぜ」と聞き返した。御米はしばらく逡巡《ためら》った末、
「だって、この頃よく御酒を呑《の》んで帰って来る事があるのよ」と注意した。
「安さんが例の発明や、金儲《かねもう》けの話をするとき、その聞き賃に奢《おご》るのかも知れない」と云って宗助は笑っていた。会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
 越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時《めしどき》を外《はず》して帰って来なかった。しばらく待ち合せていたが、宗助はついに空腹だとか云い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらという御米の小六に対する気兼《きがね》に頓着《とんじゃく》なく、食事を始めた。その時御米は夫に、
「小六さんに御酒を止《や》めるように、あなたから云っちゃいけなくって」と切り出した。
「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。
 御米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。けれども実際は誰もいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが、不安だったのである。宗助はそれなり放っておいた。しかし腹の中では、はたして御米の云うごとく、どこかで金を借りるか、貰うかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑ぐった。
 そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二を領《りょう》するように押しつまって来た。風が毎日吹いた。その音を聞いているだけでも生活《ライフ》に陰気な響を与えた。小六はどうしても、六畳に籠《こも》って、一日を送るに堪《た》えなかった。落ちついて考えれば考えるほど、頭が淋《さむ》しくって、いたたまれなくなるばかりであった。茶の間へ出て嫂《あによめ》と話すのはなお厭《いや》であった。やむを得ず外へ出た。そうして友達の宅《うち》をぐるぐる回って歩いた。友達も始のうちは、平生《いつも》の小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。けれども小六はそう云う話が尽きても、まだやって来た。それでしまいには、友達が、小六は、退屈の余りに訪問をして、談話の復習に耽《ふけ》るものだと評した。たまには学校の下読《したよみ》やら研究やらに追われている多忙の身だと云う風もして見せた。小六は友達からそう呑気《のんき》な怠けもののように取り扱われるのを、大変不愉快に感じた。けれども宅に落ちついては、読書も思索も、まるでできなかった。要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯《かいてい》として、修《おさ》むべき事、力《つと》むべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。
 それでも冷たい雨が横に降ったり、雪融《ゆきどけ》の道がはげしく泥《ぬか》ったりする時は、着物を濡《ぬ》らさなければならず、足袋《たび》の泥を乾かさなければならない面倒があるので、いかな小六も時によると、外出を見合せる事があった。そう云う日には、実際困却すると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢の傍《そば》へ坐って、茶などを注《つ》いで飲んだ。そうしてそこに御米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。
「小六さん御酒好き」と御米が聞いた事があった。
「もう直《じき》御正月ね。あなた御雑煮《おぞうに》いくつ上がって」と聞いた事もあった。
 そう云う場合が度重《たびかさ》なるに連《つ》れて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。しまいには、姉さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。そうして御米が絣《かすり》の羽織を受取って、袖口《そでくち》の綻《ほころび》を繕《つくろ》っている間、小六は何にもせずにそこへ坐《すわ》って、御米の手先を見つめていた。これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の例であったが、相手が小六の時には、そう投遣《なげやり》にできないのが、また御米の性質であった。だからそんな時には力めても話をした。話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたら好かろうと云う心配であった。
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんの事よ。そう悲観してもいいのは」
 御米は二度ばかりこういう慰め方をした。三度目には、
「来年になれば、安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって」と聞いた。小六はその時|不慥《ふたしか》な表情をして、
「そりゃ安さんの計画が、口でいう通り旨《うま》く行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船《かつおぶね》もあんまり儲《もう》からないようだから」と云った。御米は小六の憮然《ぶぜん》としている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気《さっき》を含んだ、しかも何が癪《しゃく》に障《さわ》るんだか訳が分らないでいてはなはだ不平らしい小六と比較すると、心の中《うち》で気の毒にもあり、またおかしくもあった。その時は、
「本当にね。兄さんにさえ御金があると、どうでもして上げる事ができるんだけれども」と、御世辞でも何でもない、同情の意を表した。
 その夕暮であったか、小六はまた寒い身体《からだ》を外套《マント》に包《くる》んで出て行ったが、八時過に帰って来て、兄夫婦の前で、袂《たもと》から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦掻《そばがき》を拵《こし》らえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買って来たと云った。そうして御米が湯を沸《わ》かしているうちに、煮出しを拵えるとか云って、しきりに鰹節《かつぶし》を掻《か》いた。
 その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びた事を聞いた。この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起ったもので、小六が房州から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。正式の通知が来ないので、いつ纏《まとま》ったか、宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては、何か聞いて来る小六を通じてのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を予想した。その他には、嫁の里がある会社員で、有福な生計《くらし》をしている事と、その学校が女学館であるという事と、兄弟がたくさんあると云う事だけを、同じく小六を通じて耳にした。写真にせよ顔を知ってるのは小六ばかりであった。
「好い器量?」と御米が聞いた事がある。
「まあ好い方でしょう」と小六が答えた事がある。
 その晩はなぜ暮のうちに式を済まさないかと云うのが、蕎麦掻のでき上る間、三人の話題になった。御米は方位でも悪いのだろうと臆測《おくそく》した。宗助は押しつまって日がないからだろうと考えた。独《ひと》り小六だけが、
「やっぱり物質的の必要かららしいです。先が何でもよほど派出《はで》な家《うち》なんで、叔母さんの方でもそう単簡《たんかん》に済まされないんでしょう」といつにない世帯染みた事を云った。

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